韓国孤児のオモニになった日本人女性
かつて、韓国で多くの人から「オモニ」と慕われ、
日本人として初めて韓国の文化勲章を受章した
一人の女性がいました。
1911年、高知県に生まれた田内千鶴子(たうちちずこ)さんは、
朝鮮総督府の役人であった父について、
7歳で占領下の韓国に渡ります。
韓国で裕福な暮らしを送っていた彼女ですが、
恩師の勧めで貧しい孤児院を手伝うことになり、
心優しい孤児院の経営者と恋に落ちます。
そして、両国の社会からの反発を受けながら結婚。
生活は一転、苦しくなりますが、
貧しくも充実した毎日を送っていました。
ところが、第二次世界大戦で日本が敗北すると、
韓国で日本人に対する非難が起こります。
夫婦は迫害によって命を脅かされるようになり、
千鶴子さんはやむなく日本に戻ることになったのです。
ただ、彼女が韓国に残してきた孤児たちを
忘れることはありませんでした。
そして、日本に住む母親の制止を振り切り、
彼女は再び韓国に向かいます。
その後も彼女に対する迫害は続きます。
ときには反日の人から刃物を投げつけられることもありました。
そのたびに孤児たちが、
「オモニは僕たちのオモニだ。
僕たちが守る」
と必死に守ってくれたといいます。
しかし悲劇は続きます。
朝鮮戦争の勃発で孤児が増加し、
さらには夫がスパイ容疑で逮捕されてしまいました。
その後、夫は釈放されるも、
子どもたちのために食料の調達へ出かけたきり、
そのまま行方不明になってしまったのです>>>
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投げ出したくなるような状況の中、
それでも彼女は一人で孤児院を守り続けます。
日本人女性が韓国の子どもたちのために
尽くしてくれている。
孤児たちは皆、彼女を本当の母として慕っている。
その様子を見て、彼女を応援してくれる
韓国人も現われ始めました。
1953年、朝鮮戦争は停戦となりますが、
孤児たちは500人に膨れ上がります。
周囲の人たちは、子供を連れて日本へ帰るよう勧めましたが、
彼女は孤児を守るために韓国に残ることを決意します。
そして、戦後の経済疲弊の中、
彼女は懸命に孤児院を維持し続けました。
1968年、千鶴子さんは韓国、日本両国から様々な賞を受け、
56歳の誕生日の日にこの世を去りました。
千鶴子さんは、病に倒れた際にも、
「自分の為に高い治療費をかけるのはダメよ。
そのお金を園の子供達の進学資金に使いなさい」
と指示したそうです。
孤児院があった木浦(モクポ)市では、
市で初となる市民葬が行われ、
韓国全土から3万人もの人が集まったといいます。
新聞は、千鶴子さんの死を「木浦が泣いた」と報じました。
現在でも彼女が守り続けた孤児院は存在しています。
孤児たちを何とか助けたいという思いは、
彼女の息子、そして孫へと受け継がれているのです。
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