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父の夢だった甲子園の土を僕が踏みしめた

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は、高校の時、野球部の投手として、甲子園を目指しました。

しかし、
「地区大会の決勝で、9回に逆転され、あと一歩のところで
 甲子園に出ることが出来なかった」と、
小さい頃、よく聞かされていました。

そんな父の影響もあってか、
僕は小さい頃から野球が大好きで、
野球ばかりやっていました。

父もよくキャッチボールの相手をしてくれました。

そして僕は、小学5年から本格的に野球を始め、
高校に入った時には、迷わず野球部に入部しました。

ところが、高校入学と時を同じくして、
父が病に倒れてしまったのです。

その後、入退院を繰り返し、
高校1年の冬からは、
ずっと病院に入院したきりになってしまいました。

父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、
何となく重大な病気なのかなとは感じました。

父は、病床で僕の野球部での活動内容を聞くのを、
一番楽しみにしてくれました。

そんな高校2年の秋、僕はついに新チームのエースに
任命されたのです。

それを父に報告すると、ひと言、
「お前、明日、家からグローブを持って来い!」

翌日病院にグローブを持っていくと、
父はよろよろの体を起こし、僕と母を連れて、
近くの公園の野球場に行くと言いました。

公園に着くと父は、
ホームベースに捕手として座り、
僕にマウンドから投げるように要求しました。

父とのキャッチボールは、小学校以来でした。

しかもマウンドから、座った父に向かって、
投げたことはありませんでした。

病気で痩せ細った父を思い、
僕は手加減してゆるいボールを3球投げました。

すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。

「お前は、そんな球でエースになれたのか?!
 お前の力はそんなものか?」と。

僕はその言葉を聞き、
元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。

父は細い腕でボールを受けてくれました。

ミットからはすごい音がしました。

父の野球の動体視力は、まったく衰えていなかったのです。

ショートバウンドになった球は、
本当の捕手のように、ノンプロテクターの体全体で、
受け止めてくれました。

30球程度の投球練習の後、
父は吐き捨てるように言いました。

「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。
 もう少し努力せんと、
 甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。

その数週間後、
父はもう寝た切りになっていました。

さらに数週間後、
父の意識は無くなりました。

そしてある秋の日、父は亡くなりました。

病名は父の死後、母から告げられました。

ガンでした。

病院を引き払うとき、
ベッドの下から一冊のノートを見つけました。

父の日記でした。

そして、その中に、父とのキャッチボールをやった、
あの日の記述を見つけました>>>

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の日記の記述です。

○月○日、今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。

弘が生まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。

びっくりした。

すごい球だった。

自分の高校時代の球より、はるかに速かった。

彼は甲子園に行けるかもしれない。

その時まで、私は生きられるだろうか?

出来れば球場で、弘の試合を見たいものだ。

もう私は、二度とボールを握ることはないだろう。

人生の最後に息子とこんなに素晴らしい
キャッチボールができて、幸せだった。

ありがとう。

僕はこれを見て、父の想いを知りました。

それから、父が果たせなかった甲子園出場を目指して、
死に物狂いで練習しました。

翌年の夏、
僕は背番号1番を付けて、
地区予選決勝のマウンドに立っていました。

決勝の相手は、甲子園の常連校でした。

見ていた誰もが、
相手チームの大差での勝利を予想していました。

ところが、僕は奇跡的に好投し、
0対0のまま延長戦に入ったのです。

10回裏の我がチームの攻撃で、
2アウトながらも四球のランナーが一塁に出ました。

その時、めぐってきた打順は、9番バッターの僕でした。

相手ピッチャーの球は、140kmを超えていました。

打てるはずもありませんでした。

あまりの速さに怯え、
目をつぶって打とうとしたとき、
亡くなった父の顔が、一瞬まぶたに見えたように感じました。

気がつくと、目をつぶって打ったはずの僕の打球は、
左中間の最深部に飛んでいたのです。

僕は夢中で走りました。

相手チームの二塁手が、呆然として
膝から崩れるのが見えました。

サヨナラ勝ちでした。

チームメイトは、感動で皆泣いていました。

応援に来てくれた、
父の当時のチームメイトも泣いていました。

スタンドの母が両手で持った父の遺影が、
静かに笑って、うなずいているように見えました。

甲子園では、結局一勝もできませんでしたが、
父のおかげで、甲子園に出ることができ、
とても楽しく野球が出来ました。

その時、持って帰った甲子園の土は、
全て父のお墓に撒きました。

甲子園に出れたのは、まさしく父のおかげです。

自らは地区大会の決勝で、逆転負けした、
その無念さを、僕のサヨナラの一打に換えてくれたに違いない。

そう思えてなりません。

これから、どんなに辛いことがあっても、
父のことを忘れず、努力していきたいと思います。

ありがとう、お父さん!!

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