上原浩治投手、41歳。背番号19にこだわる理由はこうです
米大リーグのシカゴ・カブスと1年契約を結んだ上原浩治投手(41)。
4月には42歳になる上原投手です。
この年齢で、米大リーグの最前線から
まだラブコールを受けている稀少な選手です。
カブス移籍を決断した理由について、こう述べています。
「やっぱり勝ちたい。僕も5年、10年できるわけじゃないので、
その1年。今年優勝できるチームに行きたいということで選びました」
確かに年齢を考えれば、目前の1年が勝負の時です。
この上原投手の野球人生は、
必ずしも順風満帆というわけではありませんでした。
むしろ、少年野球、高校野球の頃は平凡な選手だったのです。
平凡な上原少年が、現在の大選手に化けるには、
やはりターニングポイントになる「何か」がありました。
それはどうも大学進学に失敗した19歳の時にあるようです。
上原少年は少年野球・中学野球を
「寝屋川アスナローズ」という軟式野球チームで過ごしました。
通っていた中学校に野球部がなかったため、
部活では陸上部に入っていました。
その後、東海大学付属仰星高等学校に入学して野球部に入部し、
何とか高校球児として野球をやれるようになりました。
高校時代の上原選手は、控えのピッチャーで、
公式戦で投げたのは3試合だけでした。
同学年に、後に日本ハムで活躍する建山義紀選手がいたからでしたが、
上原選手自身にもあまりポジションにこだわりはなかったそうです。
高校卒業後はプロになりたいとは思っていなかったものの、
野球を続けたい思いは強かったのです。
そこで、大学に進学することにしました。
大学は大阪体育大学を目指しました。
その理由は、家計を考え、実家から通えるということ、
そして推薦入学の枠があったからでした。
上原選手、野球ばかりで勉強などまったくやっていなかったのでした。
ところが、チームメイトの一人が、
急に大阪体育大学の推薦を願い出てしまったのです。
このチームメイトの方が学校の成績がはるかにいい。
推薦枠からはじかれた上原選手は、
一般入試で受験しますが、結果は不合格でした。
今、大投手として世界からも一目置かれる上原選手が、
まさか大学は一般入試だったとは、しかも、それに失敗するとは。
しかし、人間わからないもの、この時の失敗が、
今日の上原選手の人間力を築き上げるとは…>>>
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上原選手は浪人することにしました。
そして後に、この一年間の浪人生活をこう語っています。
私は本当に死に物狂いで参考書と首っ引きになり、問題集と格闘した。
それこそ過去の十八年分を一気に取り戻すつもりで、机にかじり付いていた。
間違いなく、あの一年間が人生で最も真剣に勉強したと断言できる。
そう、これまでちっとも勉強しなかった上原選手が、
受験失敗して、初めて勉強へのやる気を燃え上がらせたのです。
この一年間、上原選手は野球も封印しました。
硬式ボールを触ることもせず、ただ週三回スポーツジムに通って
体作りに心がけました。
さらに、それほど裕福な家庭でもないから、
悠々と浪人生活を無収入で送るわけにはいきません。
工事現場などでのアルバイトにも精を出しました。
上原選手が浪人生活を送っている間に、
同学年の高橋由伸選手や川上憲伸選手たちが、
進学先の大学で頭角を現しています。
しかし、このあせりにも似た感情を、
上原選手は大きな力へと変えていきます。
「自分もいつか必ず追いつくぞ」
というモチベーションにつなげたのです。
上原選手はこう語ります。
受験に失敗することなく、すんなり大学へ進んでいたら、
上原浩治の人生は全く違っていたことだろう。
同い年で活躍する選手へ、対抗心も燃え上がらなかっただろう。
雌伏している1年の間に、上原選手は
死ぬほど勉強し、身体をいじめ、そして心を燃やしていたのです。
そして、翌春、上原選手は再チャレンジした大阪体育大学に合格します。
大学に入ってからの上原選手は、今までのうっ憤を晴らすかのように大活躍。
全日本にも選ばれ、国際大会でも活躍し、
1998年に読売ジャイアンツから
ドラフト一位指名されるまでの投手と成長しました。
ところで、上原選手の背番号は巨人での19番に始まり、
どこのチーム行っても、この19番で変わりません。
「たまたま空いてる。行くところ行くところが」と照れながら言いますが、
どのチームからも同じ番号で歓迎されていた証拠でもあります。
上原選手の19番には、こんなこだわりがあります。
「浪人していた19歳、その年を忘れないように。
その1年を考えれば、ちょっとくらい打たれたところで何も思わない。
やっぱり野球できない19歳の時が一番苦しかった。
そういう意味で背番号を見れば、すぐに開き直れる、前向きになれる」
と背番号への想いを明かしました。
「何、くそ」という心の大切さを学んだのが、
この19歳の浪人時代にであるというのです。
上原選手はこう結んでいます。
浪人時代の一年間こそ、上原浩治の礎であり、人生の要である。
私は十九歳のこの年を生涯胸に刻みつけるために、
プロ野球選手になって背番号「19」を背負った。
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